寿司チェーンを作り、全米で展開したい・・・。 米国で過ごした高校生時代、そう思った少年は十年後、日本にコーヒー店を開く。現在、その数は約300店にまで増えた。「タリーズコーヒー」を運営するフードエックス・グローブ社長の松田公太(37)は今、日本から新茶を世界に広げようと新たな挑戦を始めている。 「与えられた時間は限られているし、たとえ明日死んでも思い残すことがないよう精一杯生きたい」と松田は言う。
時間は有限!弟の死で痛感 小学生の頃 「 ファーブル昆虫記」に没頭し、手塚治虫の「火の鳥」に感動するなど生と死を意識してきた。時間が有限だと更に思い知らされたのが最愛の弟の死。風邪をこじらせたかのような症状が続き心臓移植以外に手だてがない難病と判明して僅か10カ月。松田が22歳の時、20歳の若さで帰らぬ人となった。 弟が入院中に「マクドナルドに行ってハンバーガーを食べたい」 と言ったのが忘れられない。療養中の人にも、日常生活で接していた憩いの場所を提供出来れば──。米国の病院では、入り口付近にエスプレッソスタンドがあり、医者も患者も平等にコーヒー待ちをしていた光景を目にしていた。 2004年4月、東京大学医学部付属病院(東京・文京)に出店した「タリーズ」への感慨は特別深かったという。最近では武蔵野赤十字病院(東京都武蔵野)に、東北大学病院(仙台市)にも出店した。 そもそも松田が起業したのは「食を通じて文化の懸け橋になりたい」からだった。口癖のように繰り返すこの言葉の原体験は、父の仕事で13年間海外で暮した幼少期にさかのぼる。そんな海外での生活の中で日本人の食文化が馬鹿にされることもあった。「悔しかったし、悲しかった」。そんな中で日本の味を世界に認めさせたいという気持ちは自然と培われたのである。 日本で大学卒業後に選んだ道は銀行員であった。融資等の取引を通じて経営者と出会えばいろいろ学べると思った。転機は1995年のことだった。友人の結婚式に参列する為に渡米した松田は、1杯のコーヒーに出会い惚れ込んだ。「これだ!」。米タリーズに電子メールを送り続け、来日していた米タリーズの創始者であるトム・オキーフに約束なしに会いに行って口説き落とした。起業を志す若者なら皆知っているエピソードだ。 1997年8月。後ろ盾もなく単身借金を背負い、松田は東京・銀座にタリーズ日本1号店出店を果たした。これはスターバックスコーヒーの日本1号店が出た1年後のことだった。現在、スターバックスは約600店。タリーズはその半分だ。松田は「タリーズは2号店を出すまでに2年かけた。一気にガーッとやらないのが企業文化だ」と意に介さない。ゆっくり千店体制を目指す。 日本にスペシャリティコーヒーという文化を定着させた松田は、日本の緑茶文化を世界に伝えたいと考えた。緑茶をスペシャリティコーヒー風にアレンジし、2002年12月、東京・港に「クーツ・グリーンティー」を開店させた。 日本発の味として緑茶を選んだのも幼少期の体験からだ。松田家はよく緑茶を飲んだ。海外で現地の友人が来ると、松田の母は日本で出すのと同じように緑茶を出した。日本食を気味悪がっていた彼らも、紅茶のように佐藤を入れ、牛乳を加えて「美味しい」と言って飲んだ。「クーツのドリンクもこの経験がヒントになっている」という。 米タリーズ発祥シアトルに凱旋 クーツもタリーズ同様にじっくりと育てている。最近、出店した東京・港でようやく10店舗である。そして今年の4月には、ついに“公太の緑茶”は海外に飛び立った。タリーズ発祥の地・米シアトルに1号店オープンが決まったのだ。まずは1年で5店を出す予定。将来的には各州に10店舗づつ、500店にする計画だ。 コーヒーを飲む文化がある日本にタリーズを導入してきた時と比べて、緑茶を飲む文化のない米国でんお事業展開は容易くはない。だが、やがては日本のお茶文化そのものまで興味を持ってもらえると確信しているそうだ。 今年3月。東京・文京で企業を目指す人向けのイベント「大挑戦者祭2006」が開かれた。5組のベンチャー企業がビジネスモデルを発表しあう決勝戦の審査員に、サイバーエージェントの藤田晋らとともに松田の姿があった。若い企業かもアドバイスする側になった。 審査を終えた松田は「経営者としての時間が長くても、彼らより優れているとは一切思わない」と謙虚である。ただ、「運があって、良い人に巡り会えたのだと思う」と自身の企業した頃を振返る。今、1番嬉しく思えるのが「アルバイトを始めたときは普通だった子が、情熱を捧げる仕事に巡りあって伸びていく姿を見たとき」という。 松田の好きな言葉の1つに、開拓者や先駆者を意味する「Path Einder」という言葉がある。緑茶で米国市場に乗り込む松田の姿は、まさに先駆者そのものだ。
(引用:日経流通新聞/前田絵美子)